■コーリトリ(垢離とり) 昭和33年
【和歌森 太郎編 くにさき −西日本民俗・文化における地位−第3章 修正鬼会 半田康夫】抜粋
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トシノカンジョウ(年男)と14人のタイイレシが、境内のコーリトリブチで水垢離をとる。
寺方ではこれを水行ともよんでいる。法螺貝・鐘を合図に、まずトシノカンジョウが真裸で本堂を飛出し、松明をかかげて残雪の山道を百米下の淵まで走り、はりつめた薄氷を破って、水中に飛込む。最近では写真撮影が多くなったため褌をしめてはいるか、数年前までは文字通りの真裸であった。数年前、初めてニュース映画におさめた時、真裸ではとタイイレシに申入れをしたのである。ところが、千年の伝統をわれわれの代になって破っては、というわけで、すっかりもめてしまった。それでも1時間後にはやっとカメラマンの申入れを了承したが、それほど伝統を尊重する気風はきわめて強い。
さて、トイノカンジョウが本堂へ帰着すると、入れかわりに1番のタイイレから順次6番まで同様にコーリをとる。この間、法螺と鐘は絶えず鳴らされる。 |
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■コーリトリ(垢離とり) 平成21年
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さて、トシノカンジョウとタイイレが水垢離をとるとあるが、変化は、14人のタイイレが8人へと減った事くらい。今日は、薄氷も無く、比較的温かいが、裸で飛び込むとなると、冷たい水だろう。
お斎(おとき)の間良い撮影場所を確保する為に、橋の上で小一時間を過ごす。遠慮がちな私たちを尻目に淵の一等地に数台のカメラが構えられる。このポジションではカメラマンの頭しか写らない。報道とはその背中に居るすべての人達の為。淵へ飛び込んで水垢離を取って欲しい。
やがて、松明を手に褌一丁で走って来ては淵に飛び込んで水垢離をとる。片手に松明を持ったまま、淵の上から飛び込み勇ましい姿も見せていただいた。
ちなみに垢離(こり)とは、神仏に祈願する時に冷水を浴びる行為のこと。水垢離(みずごり)、水行(すいぎょう)とも言う。心身を清浄にすることである。
特に修験道は、神仏習合の山岳信仰による影響からこの水垢離を行うことが多い。 |
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